『えんとつ町のプペル』騒動に見るインターネット社会の「功と罪」
またしても、インターネット社会の生み出した「功罪」が露となる出来事が起こった。
それは、キングコング西野さんの著作『えんとつ町のプペル』に関する一連の騒動である。
ここでは、改めて事の顛末を記すつもりは全く無いため、知らない方は是非、自分で調べて欲しい。
さて、今回の騒動で露となった「功罪」とは何か。
まずは「功績」から。
前回のエントリ(http://miyagippoi.hatenablog.com/entry/2017/01/20/231834)でも書いた通り、インターネット社会のもたらした恩恵は、計り知れない。
20年程前には考えられなかったこと(良いことも悪いことも含め)が、現代では当たり前のように行われているのである。
それは『えんとつ町のプペル』にも同様のことが言える。
クラウドファンディング、WEBマーケティング、完全分業体制など、もはやインターネット社会の恩恵無くして、完成を望むことは出来なかった作品と言っても過言では無いだろう。
そういった点から、この作品は“21世紀的作品”と評しても良いのかもしれない。
インターネットの恩恵を最大限生かした、素晴らしい作品だと、素直に思う。
加えて西野さんは、この作品を買いたいけど買えない人々のために、「WEB上での無料公開」を開始した。
これもインターネットがあるから出来ることであって、20年程前には考えられなかった戦略であろう。
もちろん「書店での立ち読み」を念頭に置けば、決して革命的な手法でないことは、間違いない。
しかし、誰もが忙しなく生きる現代。
殊、絵本の主な購買層である「子を持つ親」にとっては、書店に足を運ぶ時間さえ確保するのが難しいと思われる。
そんな現代において「WEB上での無料公開」は「書店での立ち読み」をはるかに上回る、時代に即した効果的な手法であった。
その結果が、23万部突破(1/22現在)という立派な数字なのである。
以上が、インターネットのもたらした「功績」。
では反対に、今回の出来事で露になった「罪過」とは何か。
一言で言えば「コミュニケーションの齟齬」ではないだろうか。
今回の炎上のきっかけとなったのは、西野さんの『「お金が無い人には見せませーん」ってナンダ?糞ダセー。(原文ママ)』、という言葉だと言われている。
確かに、作り手から見れば「自分達のことを馬鹿にしている!」と思われても仕方ない言葉遣いである。
だが、その直後に西野さんは、このように書いている。
『……いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません(←ここ大事!ニュースになると切り取られる部分ね)。
しかし、はたして全てのモノが『お金』を介さないといけないのでしょうか?(原文ママ)』と。
ここまで一括りで読めば、西野さんが決して、数多いるクリエイターを馬鹿にしている訳では無い、ということが分かるだろう。
いや、むしろ直前には、
『そして、『お金』にペースを握られていることが当たり前になっていることに猛烈な気持ち悪さを覚えました。』
と書かれていることから、『糞ダセー。』という言葉は、自分自身に投げかけられていることが分かるはずだ。(間違っていたらすみません)
前述した通り、誤解を生むような言葉遣いであったことは間違いない。
その点に関しては、西野さんも言葉を選ぶべきであった。
だが、読み手も同様、たった一文だけで判断することを避けなくてはいけなかった。
全ては「罪過」から逃れるために。
インターネット社会が成熟した結果、ほぼ世界中の情報にアクセス出来るようになった。
つまりは、情報が世界に溢れ出した。
情報が溢れ出した結果、多くの人々は、1つの情報を入念に読み込むことを止めた。
なぜなら、ネット上には、他にも読まなくてはいけない情報が山ほどあるからだ。
(実際には、必読の情報なんて、さほど無いのだが。)
よく読まずに判断すれば、齟齬をきたしてしまう、というのは自明の理であるだろう。
ましてそれが、自分に向けられたかのような激しい言葉であれば、尚更。
だから、今回の騒動は「どちらのせいでもないし、どちらのせいでもある」と総括して良いのではないだろうか。
自分の思いを伝えたいのであれば、きちんと伝わるような言葉を使う。
相手の思いが理解出来ないのであれば、理解出来るまで読み込む。理解出来なくても、すぐに批判の姿勢を取らない。
これが、21世紀における大事な処世術の1つなのかもしれない。
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前回のエントリ(http://miyagippoi.hatenablog.com/entry/2017/01/20/231834)同様、またしても白黒ハッキリさせようとしない自分は、もしかしたらずるい人間なのかもしれない。
白黒ハッキリ付けず、どちらにも良い顔をして生き延びようとしている、最も低俗な人間なのかもしれない。
だが、どちらの件にも共通して言えるのは、「仮想敵を作ったところで、世界は一歩も前進しない」ということである。
自分とは意見の異なる他者を徹底的に追い込み、排除し、住み心地の良い世界を作ろうとすることは、短期的に見れば幸せかもしれない。
だが、同じような思想を持った人間だけの集まりは、脆い。
何かの拍子に全滅する可能性を多いに孕んでいる。
その点、自分にとって理解出来ない思想は、短期的には耳障りでしか無いが、長期的には自分の身を助けてくれる可能性が高い。
歴史的に見ても「裸の王様」が君臨する国は、必ず滅んでいる。
異なる思想は、自分の考えを改めて認識させてくれる「鏡」でもあるからだ。
現代人は、インターネットという「魔法の鏡」を得た。
だが、一度その「魔法の鏡」の使い方を誤れば、私たちは死ぬまで踊らされることになるだろう。
「情報」という名の、真っ赤な靴を履かされて。
終
余地、余裕、余暇。
自分の話ばかりする人は苦手。
つまらないと尚更。
だけど、ごくたまに、不快にならない人がいる。
とっても不思議。
どうして不快に感じないんだろう。
ツッコミの余地を与えてくれているから?
あくまで対比として自分の話をするから?
単純に、選ぶ話題が面白いから?
結局は好き嫌い?(だなんて元も子も無いことを言っちゃいけない…)
もしかしたら「相手のことを考えているか否か」が分かれ目なのかもしれない。
前者は「そういえばこんな話があってさ。どう思う?」で、「俺の話を聞いて!ねえ面白いでしょ!」ってスタンスが後者。
結局、コミュニケーションって相互の歩み寄りによって成り立つものだから、互いに思いやりを持った会話を出来ていれば、快適な空間になるのではないでしょうか。
かくいう私は、自分の話をするのが苦手。
誰かの楽しそうな話を聞いている時間が、好き。
今年は、この辺りも変えていかないといけないかもしれませんね。
新しい保育園の形って何だろう
ふと思い付いたことを備忘録も兼ねて、羅列してみます。
保育士の低待遇と、貧困家庭への安価な保育の提供をなんとか共存させることは出来ないのかな。
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
1つ思い付いたのは、同じ園内に2つのクラスを設置すること。
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
片方には、外国人の保育士を配置して、英会話も勉強出来ることを付加価値に、少人数の高所得者を受け入れる。
もう片方には、最低限必要な設備(劣悪でないのは言わずもがな)だけ設置して、大人数の低所得者を受け入れる。
これ「思い付いたのは」って言ってるけど、人のアイディアでした。失礼しました。笑
からの、
東京は土地が余ってない、って本当なのか?
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
都内にあるビルを借り上げる方式は悪くない気がする。
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
預ける方にはメリットがたくさんある。
なんてったって、送り迎えの手間が減るのに加えて、会社の近くならギリギリまで一緒にいられるもんね。
やっぱり一緒にいる時間は出来るだけ増えた方が良いもんね。
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
てか、もしかしたらビル1棟借り上げるより、六本木ヒルズのワンフロア借りた方が安上がりなのかな?
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
そしたら話題性にも繋がりそう。笑
いや、やっぱりビル1棟借り上げて、そこに子ども向けの企業を誘致した方が良いな。
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
そこにワークシェアスペースも作っちゃえば、完璧じゃないか?
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
そしたら、在宅ワークを奨励する企業を増やすのも大事なことだね。
— 悠仁 (@miyagippoi) 2016年9月10日
とりあえず、こんな所でしょうか。
論理が飛躍し過ぎてる所もあるけど、そこは今後詰めて行くとして。
全く関係無いけど、初めてTwitterの埋め込み機能使ってみたら、かなり便利。
終
子育て支援は日本を救う
「今日の日本に現存する多くの問題は、互いに繋がりがあるため、一朝一夕では解決出来ない」
これは事実だと思います。
簡単に解決出来る問題であれば、多くの国民が長い間苦しんでいる、なんてことは、あり得ないはずですから。
ただ、これら日本が抱える問題(少子高齢化の加速、財政難、自殺率の上昇、待機児童の増加など)に相互の繋がりがあるならば、裏を返せば「共通する根本の原因を見つけ出し、対応策を講じることが出来れば、ドミノが倒れるかのように解決出来る」という可能性を孕んでいる、とも言えます。
では、根本の原因への「対応策」とは何か。
そんな疑問を、統計学の観点から解き明かしたのが、京都大学大学院准教授・柴田悠さんによる『子育て支援が日本を救う -政策効果の統計分析-』です。
こちらは、タイトルの通り「子育て支援が日本を救う」という論理的な仮説を、様々なデータの分析を通して検証していく内容となっています。
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この本を読んで感じたことを何点か。
①子育て支援はスーパーヒーローではない
「子育て支援が日本を救う」というのは、間違いないと思います。
子育て支援を行うことで、待機児童問題が解消され、労働意欲のある女性が社会進出を果たし、日本の労働生産性とGDPは上昇し、相対的貧困率も低下するはずである、ということが統計分析によって実証されているからです。
ただ、子育て支援を行えば必ず日本が良くなる、と考えるのは早合点。
子育て支援はあくまで「第一歩」。
ドミノ倒しで言えば、最初の1コマ。
次のドミノが倒れなかったり、倒れたとしても正しい方向に向かわなければ、全てが水泡に帰してしまうことでしょう。
最後の1コマまで倒して、明るい絵を完成させるためには、国民一人一人が理想の社会を考え抜き、それに向けて行動していく姿勢が求められると思います。
②今、まさしく子育てに奮闘している全ての方に感謝をしたい
現在の日本で子育てをすることは、非常に大変なことだと思います。
保育園に預けるだけでも一苦労。
預けられなければ待機児童。
預けられても、子供が熱を出せば仕事を切り上げて引き取りに行く。
国は、少子化を問題視しているはずなのに、2人目、3人目を産んでもくれる補助金は雀の涙。
仕事に疲れて帰っても、家事と育児で休まる時間が無い。
これでは子供を産みたい、と思う人が増えないのも無理はありません。
仮に、政策で母数を増やすのが難しいのであれば、せめて今現在子育てをしている方々に対しては、国として感謝の意を表明するべきではないでしょうか。
変だと思うかもしれませんが、自分は親子連れの方とすれ違う時には必ず「ありがとう。頑張って下さい」と心の中で思っています。
今の自分には、そんなことしか出来ませんが。
③統計学が最強の「学問」である
たとえ自分の頭で考えて「これが絶対に正しい!絶対に実行すべきだ!」と感情に任せて訴えたところで「過去5年の推移はこのようになっているが、この時点で、この政策を実行すれば、今後何%の変化が生じる」という論理には、なかなか勝てません。
(仮に、その考えが正しかったとしても)
これは、選挙演説などを見ていて感じる人も多いのではないでしょうか。
涙ながらに訴える政治家と、事実を基に冷静に語る政治家の、どちらが信頼に足るか…
それくらい「数字、ファクト、ロジック」は強いということです。
④ただ、統計学だけでは動かない現実もある
例として「涙ながらに訴える政治家と、事実を基に冷静に語る政治家」を出しましたが、時に両者の勝敗が逆転する場合があります。
時代の趨勢や、民衆の感情、政治家のカリスマ性、または本性の露呈、等、様々な要因は考えられますが、要は「数字だけで人は動かない」ということです。
時に、感情で物事を決定し、失敗することもあれば、成功もある。
そのようにして世界が発展してきたのも事実です。
統計学は最強の「学問」であるけれど「実践」という観点では、必ずしも最強ではない、ということも心に留めておかなければいけません。
⑤ある側面だけを見て物事を判断してはいけない
仮に、日本の経済成長率が年々上昇している、という事実があったとします。
これだけを見ると「成長」という言葉から「日本もどんどん豊かになっていて素晴らしいじゃないか!」と考えてしまいがちです。
確かに経済が成長することは、国家にとって良いことです。
ただ、そもそも「経済成長率」とは「国内人口一人当たりの物質的豊かさの増大」を表します。
ここで肝心なのは「国内人口一人当たりの」という言葉です。
「国内人口一人当たり」ということは、つまり「平均的な」ということです。
「平均的な」ということは、例えば「国民の大半は貧しいままで、少数の億万長者の資産だけが増加している」という構図も成り立ってしまいます。
今の日本(もしくは世界)が、まさにその道に進んでおり、いわゆる「格差社会」が加速しています。
(『21世紀の資本』の中でピケティが危惧している事態)
格差社会の加速とは、つまり「豊かな人は、より豊かに。貧しい人は、より貧しく。」が以前より顕著に現れている、ということです。
おそらく、今後も日本の経済成長率は、ネットの発達により、更に上昇するでしょう。
ただ、少子高齢化による「労働人口の減少」に歯止めを掛けない限りは、成長率に反して相対的貧困率も上昇しかねない、ということを忘れてはいけません。
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この本を読むことで、本当に多くのことを考えさせられました。
今のところ「今年NO.1」の本なので、出来れば1人でも多くの人に読んでもらい、日本の将来を考えるきっかけにして欲しいです。
自分も、行動します。
やっぱり自分の生まれた国、日本が大好きなので。
社会の先輩方へ捧ぐ(裏)
前回、こんな記事を書いた。
社会の先輩方へ捧ぐ - Guppoi http://miyagippoi.hatenablog.com/entry/2016/07/07/014504
端的に言えば、「仕事が出来るようになった姿を、今までお世話になった方々に見せたい」って話。
確かに、この思いに嘘偽りは一切無い。
自分が成長することで、喜んでくれる人がいたら嬉しいからね。
ただ、それだけじゃない。
「仕事が出来るようになりたい」っていうのは、それだけが理由じゃない。
じゃあ、何か。
おそらく「復讐」なんじゃないかと思う。
今まで自分のことを下に見てきた人に対する復讐
ぞんざいな扱いをしてきたクライアントへの復讐
横柄な態度を取ったタクシードライバーへの復讐
興味無いです、って態度を取ったあの女への復讐
庶民を散々馬鹿にしてきた「お上」に対する復讐
何をいきなり物騒なことを、と思われるかもしれないけど、綺麗事だけで目標が叶うとは思わないし、誰にだって、こういう黒い部分はあるはず。
そんなのありません、って心から言える人なんているのかな?
俺はいないと思う。
だって心理学で有名なユングですら「神というものは善のみではない。その半分は悪だ。」って言ってるんだもん。
じゃあ、あなたは神以上ですか?って話になっちゃうでしょ?
って、そんな話はさておき。
こういう「黒い原動力」の方が、実は大きなパワーになることが、しばしばあるんだよね。
自分にとっては、それが「復讐」なだけであって、他の人にとっては、「モテたい」とか「金持ちになりたい」とか「有名になりたい」とかになるはず。
これは極端な方向に走らない限り、決して悪いことじゃないと思う。
殺人とか詐欺とかね。
こういう他の人には見せられない、黒くてドロドロした部分が、1人の人間の中で濃縮に濃縮を重ねて、解放された結果、社会が一歩でも前進してればオッケーでしょ、って俺は思うけど、他の人はどうなんだろう。
綺麗事だけで叶えられたら、それもそれで素晴らしいと思うんだけどね。
まあ、いずれにせよ。
仕事が出来るようにならないといけないことに、変わりは無いか。
復讐を遂げるために頑張りましょう。
終
社会の先輩方へ捧ぐ
ふと思ったんだけど、仕事が出来ない頃の自分の姿を知っている人たちの存在って、後々大事になってくる気がする。
それこそ、おじいちゃん、おばあちゃんみたいに「こんなに大きくなって!」って喜んでくれる人もいれば、
「あいつを育てたのは俺だ」って飲み会で自慢する人もいるだろうし、
「なんであんな奴が…」って妬む人もいるはず。
だけど、そんな人たちも全てをひっくるめて、大事になるんじゃないかなー。
仮に、何年後かに自分が仕事出来るようになって、会社興して、メディアへの露出も増えたとしても、
社会人としての礎を築いてくれた、そんな人達の前では偉そうに出来ないはずなんだよね。
抑止力って言ったら語弊があるかもしれないけど。
もちろん、こんな話をするなら、自分が仕事出来るようになることが大前提。
今、目の前の仕事にもっと力を注がないといけない。
その上で、
「まだまだ調子乗るんじゃねえぞー」って、冗談まじりに押さえつけてくれる人とか、
「お前のことは何があっても、ずっとサポートしてやるからな」って言ってくれる人とか、
「どう?久しぶりに一緒に仕事やらない?」って言ってくれる人とか
色んな人に囲まれて、良い仕事が出来たら楽しいだろうなー!
よし、頑張ろうか。
終
神秘的な身体
健康診断の結果が返ってきた。
3年目にして「D」判定が。
なんじゃこりゃ!と思ってよくよく見ると「中性脂肪の値が低過ぎる」とのこと。
いやいや、中性脂肪の値が高過ぎる、ってのは聞いたことあるけど、低過ぎて問題ってどゆことやねん、と思ったんだけど、調べてみると、ちゃーんとあるんだね。
特に過度なダイエットとか、偏食しがちな女性に多いらしい…
要は栄養不足。
たしかに最近、タンパク質を摂ることしか頭に無くて、炭水化物とか、脂質とか気にしてなかったもんなー。
更に驚きなのが、中性脂肪の低下によって引き起こされる症状に「全身の倦怠感、頭痛」が含まれていたこと。
ここ最近、ずーっと悩みだったことがやっと解決されそう!
俺、仕事へのモチベーションが低いんじゃなくて栄養が足りてなかっただけなんだ!
ってことで、今日からはもっと食事について深く考えたいと思います。
最後に、この経験を通して学んだこと。
「自由には責任が伴う」
月並みですが、大事ですな。
終